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紅茶とお菓子について書いているほっこりブログです

母と祖母に支配された

一番悪いのは母親だよな
・何を書いても構いませんので@生活板 15

561 :1/3:2015/12/14(月)12:41:43 ID:CYx
長文すいません。
十年以上前に亡くなった祖母と、私と母の話。
私が中学になる頃まで、父方の祖父祖母と同居だった。
祖父、祖母、父、母、私、妹の6人で、二階建て一軒家に住んでいた。
祖母は身体が弱く、私が物心ついたときには入退院を繰り返していた。
出来るだけ自宅にいたいという祖母の意向により、病院に置くような医療機器を両親は購入した。
元々いいとこのお嬢さんだったらしく、お金を湯水のように使っていた。
当然、嫁入りしたわけだから、実家の援助もなく、すぐに貯金は使い果たし、両親の貯金に手を出していた。
母は、そのため仕事をせざるを得なくなった。
母は、小さかった私が見ても酷いくらいに、嫁いびりされていた。
出した食事を捨てられ、稼ぎが少ないと怒鳴られ、妹が可愛くない、男を産め、とにかくクソトメのやることを網羅していた。
朝のうちに、朝昼の食事を作り、掃除し、洗濯をし、仕事に行って、夕方帰ってきたら、夜の食事を作り、洗濯を取り込んだ。
もちろん全て6人分の量。
夕食は、皆が寝静まった後、家族が食べた後の残飯を食べていた。
祖母が、嫁は同じ食事は食べてはいけないと言っていた。
よく1人で暗い部屋の中、母が泣いているのを見ていた。
一度だけ、私が祖母に、母を虐めないでくれと言ったことがあったが、余計にいびりが酷くなったので、それ以降私から祖母に、母に対するいびりに関しては何も言わなくなった。
祖父が言うには、祖母が結婚したときにはすでに祖父方の親戚は皆亡くなっていて、祖母自体、そんなことしたことないくせに、そう言っていた。
食事も出来合いのものを買ってきていて、召使を呼んで全部やってもらっていたらしい。
母が嫁入りしてからは、貯金も無くなったし、母を召使い代わりにすることにしたようだった。
とにかく、母はずっと忙しく、父も仕事と不倫で殆ど家に帰って来ず、両親には全くかまってもらえなかった。
必然的に、祖父と祖母に私たち姉妹は面倒を見てもらうこととなる。
私はずっと二階の祖母の部屋に軟禁されていた。
妹の事は何故か嫌いだったらしく、部屋に近づくだけで、あっち行け、顔を見せるなと言われ、悲しそうな顔で下の階に降りていくのを見ているしかできなかった。
私は祖母に気に入られていた。
しかし実際は、私が家にいるとき、トイレと食事と寝る時以外は、祖母の部屋にいなければならなかった。
硬い板の間に正座でずっと座らされ、柔らかい布団に横になっている祖母の肩を揉んだり、祖母をおだてなければならなかった。
肩を揉む時、一時間も続けてやらされるとさすがに手が痛くなり、足も痺れてくる。
その時、少しでも足を崩したり、手の力を抜くと、竹の物差しで容赦なく叩かれた。
幼稚園に行くようになっても、幼稚園から帰ってすぐに祖母の部屋に直行しないと、癇癪を起こし暴れ、それが原因で祖母が入院することになる。
祖母が入院すると、祖母はまた我儘を言い、一番高い個室に入り、母は入院中ずっと泊まりで祖母に着かなくてはいけない。
母が余りにも可哀相だったから、私はずっと黙って祖母の言いなりになっていた。
一方祖父は、妹を可愛がった。
可愛がった、というより、可哀相だったのかもしれない。
祖父は、妹に、新しいおもちゃを買ってあげたり、遊び相手になってくれていた。
私が二階で祖母の肩を揉んでいる間、窓の外から、妹の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
辛くて悲しくて、でもそれを祖母に言うと、母や妹に辛く当たるのは目に見えていたので、黙って祖母の言う通りにするしかなかった。
小学校に上がっても、祖母は私を離さなかった。
放課後遊ぶ友達が出来たのに、直ぐに帰らないと学校や、仲の良い友達の家に電話をかけてきた。
あの子は頭が悪いから遊ぶな、家柄が悪いから遊ぶな、顔が悪いから、とにかく何かしらイチャモンをつけ、友達から遠ざけようとしてきた。
祖父は、私を習い事に行かせることにしたと祖母に嘘をついて、少しの時間だけ遊びに行かせてくれた。
あれは確か、一年生の夏だったかな。
母が、とうとうノイローゼにより、精神病院に入院しなければならなくなった。
祖母はそんな母のことを、基地外嫁は死ねとか、家名に傷がつくから帰ってくるなとか、暴言を喚き散らしていた。
その基地外嫁に世話になっていたにも関わらず、だ。
幸い、長期入院にはならなかったものの、さすがにマズイと、祖父祖母と別居することになった。

562 :2/3:2015/12/14(月)12:44:28 ID:CYx
少し遠くのマンションに引っ越し、新しい土地で、新しい学校で、新しい友達もでき、何も縛られることがなくなって、私は普通の小学生になれた。
それも、しばらくの間だけだった。
今度は、母が私に対しておかしくなった。
門限に帰って来るように言ったにも関わらず、母が妹を連れてどこか遊びに行っていて、夜遅くまで家に入れなかったり。
お小遣いを貯め、ずっと欲しかった、小さな色鉛筆を買った。
母は何故かそれが気に食わなかったようで、怒り狂いながら色鉛筆をボキボキに折り、ゴミ箱に捨てたり。
急に怒鳴ったり泣いたり。
裸で外に縛られたこともあった。
もしかしたら、まだ精神的に安定してなかったのかもしれない。
そして、突然、母が居なくなった。
確か、学校が冬休みの時期だったと思う。
朝起きると、机の上に、一万円札が何枚かと、書き置きがあった。
おかあさんは しばらく いなくなります。これで なにか かかってたべてね。
父は、相変わらず一月に一回帰って来るか来ないかだった。
居なくなる2日ほど前の夜中、両親がどなり合う喧嘩をしていたのを覚えている。
私は、まだ幼稚園児の妹を起こし、服を着替えさせ、近所のスーパーが開く頃にパンを買いに行った。
田舎だったので、近所といってもそれなりに遠く、いつもなら車で行く距離だったが、途中で疲れたという妹をおんぶしながら、毎日スーパーでパンを買って帰った。
毎朝、私が妹を連れて、朝にパンを買いに行っているのに気づいた、目の前の部屋に住んでいる外国人のお兄さん。
カタコトの日本語で、どうしたのと心配してくれた。
私は正直に、母が居なくなった、父も帰って来ない、と言った。
お兄さんはすごくビックリして、父の会社に電話してあげると言ってくれた。
家に入ってもらって、父の会社の電話番号を調べてくれた。
お兄さんは電話先に、カタコトで一生懸命、私たちの状況を説明してくれた。
お兄さんが電話を切ると、私たちにサッポロ一番塩ラーメンを家から持ってきて作ってくれた。
冷蔵庫の中にあった腐った野菜やら、その他ゴミも捨ててくれた。
洗濯も掃除もしてくれて、母がいる頃よりピカピカになった。
お兄さんの車でスーパーに買い物に行き、お菓子とパンを買ってもらった。
その時は、本当に神様かと思ったくらい嬉しかった。
夕方になって、父が珍しく帰ってきた。
お兄さんは泣きながら、日本語と外国語が混ざった言葉で、父に猛烈に叱っていた。
父はひたすら項垂れていた。
次の日、母は帰ってきた。
いなくなった期間は二週間くらいだったと思う。
母と一緒に、お兄さんの家にお礼に行った。
お兄さんは母にも猛烈に怒り、でも最後は、ちゃんと笑ってくれた。
それから父は、それなりに帰って来るようになった。
母も、たまにヒステリーを起こすが、だいぶ普通の母親になったと思う。
マンションに引っ越して一年、何があったかは知らないが、また祖父祖母と同居するため、前の家に戻ることになった。
相変わらず、祖母は私を支配し、家にいる間はずっと召使いのように動いていた。
母も仕事をまた始め、父もあまり帰らず、妹は友達の家に遊びに出かける。
祖父も、妹が手を離れ、自分の趣味が出来たのか、昼間あまり家に居なかった。
私と祖母だけが家に居て、友達と遊ぶことも許されず、祖父も昼間居ないとなると、私が祖母の介助のようなことまでしなければならなくなった。
中学に上がり、また別居になった。
祖母はその後も入退院を繰り返して、入院になる度に、私に会いたいと言っていたようだった。
私は、部活を引き合いに出し、一度も会いに行かなかった。
高校に上がり、祖母が亡くなった。
葬式の間は、やっといなくなったと思っていた。

563 :3/3:2015/12/14(月)12:48:43 ID:CYx
その後私は大学を出て、仕事をし、結婚をして、旦那の転勤に着いていくため仕事をやめ、子供が2人できた。
母も生活に余裕ができ、悠々自適に暮らしている。
妹も、まだ実家暮らしで結婚はしていないが、仕事はしている。
そして今、実家に帰るたび、母に言われる。
お前はお婆ちゃんに可愛がってもらったくせに、入院したときは一度も見舞いに行かなかった、お盆も命日も帰らない、仏壇に手を合わせることも、墓参りすらしない、薄情な奴だと。
お婆ちゃんはあんなにお金を使っていたのだから、お前はお婆ちゃんの恩恵を受けていたはずなのに、何一つ恩返しをしない、と。
私は祖母に、欲しいものを買ってもらったことはなかった。
祖母はメロンが好きで、しょっちゅう高級メロンを買っては部屋で食べていたが、私は一口ももらったことはない。
高い服を買ってもらってたと言われたが、私はアトピーがあったのに、肌に合わないチクチクした服を無理やり着せられ、薬が服に付くといけないと、薬をつけることを許されず、かきむしって酷くなったこと。
グランドピアノを買ってもらったとも言われたが、私は習いたいなんて一言も言っておらず、祖母が無理やりやらせようとして買っただけだったこと。
母と妹は、それを知らなかったから。
私が祖母の部屋で何をしていたか、何が行われていたか、母を傷つけると思って、妹が羨ましいと思って、ずっと言わなかった。
私は意を決して、母と妹に、全て言った。
辛かったこと、妹が羨ましかったこと、母が居なくなったとき泣かずに頑張ったこと。
妹は、謝ることはなかったのに、勘違いしていたと謝ってくれた。
妹は、何となく気づいていたらしかった。
しかし母は、そんなはずはない、あんなに可愛がってもらっていたと、私の言うことを認めてくれなかった。
服だってアトピーがあったにせよ、買ってもらってた。
ピアノだって、やらなかったにせよ与えてもらってた。
そう言って否定する。
やっと祖母を忘れたと思ったのに、実家に帰るたび、たまに電話をするたびに、祖母の話をされ、胸の奥底が抉られるような気分になる。
ごめんなさい、とりとめのない長文でした。