中華料理屋……のいちばん古い記憶をたどっていくと、福岡県福岡市西新にあった「西新福寿飯店」だ(2006年3月に大名に移転)。赤いテーブルの上にのった回転板、中華風の店内、地下に噴水もあり地上3階建て(それ以上だったかも)もある大きなお店で、週末はいつも混雑していた。今年亡くなった祖父が中華丼と唐揚げを、母はジャージャー麺をよく食べていた。小さい頃の自分が何を食べていたか、覚えていない。
ただ大人になってから、紹興酒で酔っ払って、辛い麻婆豆腐を食べるとすこぶる美味しいことを教えてくれたのは、この店だ。
子供の頃のもう1つの中華料理屋といえば「王将」だった。貧乏な我が家はよく行っていた(大食漢の祖父のせいもあったかもしれないが)。私は豚肉が食べられない。挽肉にした豚は食べられるが、豚料理が多い王将で食べられるものは限られていた。ラーメンと餃子を頼んでいたが、ラーメンは「一心亭 干隈店」のほうが好きだった。
今は知らないが、私が幼稚園の時に初めて一心亭 干隈店に行くと、ラーメンマンそっくりな親父(当時、まだラーメンマンはいなかったけれど)が、練った小麦粉の塊を左右に引っ張って、ラーメンの麺を自作していた。そのため、子供の私は「ラーメン屋の麺は、全部自分で作っている」と信じていた。また、一心亭のコップはすべて、ワンカップの空き瓶だったので、ラーメン屋のコップはワンカップの瓶を使うモノだと思っていた。
話はそれたが、王将ではラーメン&餃子、もしくは皿うどん(油で揚げた細麺・豚抜き)が、定番のメニューだった。ある日、王将に行った際、皿うどんを注文するが、オーダーミスでなぜか「肉野菜炒め」がやってきた。家族に「これは私が頼んだモノと違う!」と訴えたが、「アナタが肉野菜炒めを頼んだのでは!」と反論される。今と違ってうぶな私は、主張が認められない悔しさと食べたくないものがでてきたので、泣きたい気持ちで食べていた。そして、食べ終わった直後に、「すいません、オーダーミスでした」と、店員が皿うどんを持ってきた。
そんな事件があってから、私は王将が嫌いになった。ちなみにこの王将は立地がいいにもかかわらず、潰れている。
転機が訪れのたのは、大学に入ってから。大学時代は契約社員として、某所で働きながら独り暮らしをしていた。ある日筑豊に出張し営業活動を行い、仕事が終わり社員数名と車で福岡市の中心部に向かっていた。時間は夜の8時を過ぎ、夕食でもとろうということになり、空港近くの王将に入った。
社員のひとりに美人な女性がおり、彼女は「ニラレバ炒め」をオーダーしていた。ニラレバ炒めはそれまで食べたことがなかったのだが、あまりにも美味しそうに食べていたので、少し分けてもらった。美味しい、これは美味しい。強火で炒めたモヤシの食感、風味の強いニラとビターなレバーを、濃いタレがまとめ素晴らしい調和を生み出していた。こ、これは、ご飯が何杯でもススム君だ!
あまりにもニラレバが美味しかったので、その後、自宅近くの王将に行き、ニラレバ+天津飯+生ビールというセットが定番となった。仕事が遅くなり自炊できないときは、王将に通っていた。
この王将はカウンターしかなく、ヤクザのような強面の店長、詐欺師のような怪しい雰囲気をもつ店員がメインとなり働き、3人目となるスタッフは苛められるのか辛いのか、ころころ変わっていた。
そして大学卒業後、就職も決まらないまま東京に行く。
東京の王将で衝撃を受けたのは、天津飯が「ケチャップ味」だったこと(今は違うぞ)。福岡では醤油味だったのに…… ちなみに、ケチャップ味の天津飯は他のお店でも出されたので、王将だけが変ではない。
こうして、また私と王将の距離ができてしまった(10ン年ぶり2度目)。
何とか会社に入り込み、職場のある街にも王将があったが、天津飯ケチャップのため、あまり行かなかった。しかし、王将の近くにオフィスが引っ越しをして、行く回数が増えた。距離的に近いのもあるが、深夜三時までやっている中華料理屋が無かったのも大きい。10月は10回以上会社に泊まったので、大変お世話になった。
今行っている王将は、「30人以上軽く殺しているような、目の鋭い男性」がおり、てっきり店長だと思っていたのだが違った。カウンターとテーブル席が5つぐらいしかないが、店員さんは10人近くいる人気店。急に雨が降ると、傘をすっと貸し出してくれる店だ。
そんな私と王将の危うい関係だったが、ついに提示するだけで飲食代金が毎回5%割引される魔法の王将カード「ぎょうざ倶楽部」を手に入れた。もし、私と王将に行く機会があれば、いつでも5%引きにできるぞ!
選ばれた者だけが手にするカード!!!