高級ディナーの最中、彼女がトイレで母親にメールをしていたので、気持ちが萎えたというはてな匿名ダイアリーが人気だったようだ。
・ミシュランの星がついたレストランで同棲中で婚約中の彼女と食事をした。(元記事が消えたのでGoogleのキャッシュ)
このエントリーについて、匿名ダイアリーの返信やはてなブックマークで釣りじゃね?とコメントがあり、これらに対して怒っているエントリーがこちら。
・俺は「釣り判定」を下したがる奴に対して心底怒っている(マシバ}クンシッバ)
今回書きたいのはそこじゃない。何か物議を醸すような記事が上がってきたとき、すぐに「これは釣りだ」って言いたがる人たちについて、私は非常に憤りを感じるということだ。
最近だとこの記事に対するブックマークコメントの一番乗りが「釣りです。」だった。
証拠不十分なまま釣りだと断定する愚かしさを説きたいんではない。悪質なのは、「これは釣りだ」と言いたいだけの人間が多数いるということだ。正直、上二つの記事の内容なんてどうでもいい。事実だろうが創作だろうが勝手にしたら良いし、釣りだったとしてドヤ顔で釣り解説でもしたらいい。そうではなくて、なんでもかんでも釣り判定を下したい人間がいるせいでネット上のさまざまな表現が萎縮することを懸念しているのだ。
私は心霊動画を見るのが大好きで、ネットに上がっているのはもちろん、ここ数年は「ほんとにあった! 呪いのビデオ」シリーズをレンタル屋から借りて見ている。もう30巻以上みたかな?
このシリーズは読者から投稿された心霊動画を紹介しているんだけど、正直なところ「これは明らかにスタッフが作っただろう」という作品もあれば、「え、これは本当の幽霊なんじゃ……?」という回もある。動画そのものでも楽しいのだが、「これは嘘・本物どっち?」と判断しながら観るとより楽しい。
視聴者が積極的に反応することで、動画と鑑賞者の間に対話が発生するからだ。
ただ、いくら判断しても「フェイクかリアルか」は視聴者は永遠に知ることができない。カメラアングル、出てくる人の会話、なぜこんな場面で撮影しているのか? 画質、撮影された年代……など、判断できる痕跡はたくさん残っているが、それらを揃えても「たぶん」という、エクスキューズが必ずついてしまう。そして「たぶん」を抜いて「フェイクかリアルか」を語ると、途端に野暮になってしまう。
発信者がはっきりしないネットに投稿された文章は、「ほんとにあった! 呪いのビデオ」の収録動画と同じで、嘘か本当か誰もわかりはしない。けれども、釣り・真実判定をしながら読むと面白さは倍増するのは間違いない。
ただ、最近は何も考えずに「釣り認定」をしている人もいるけど、これは彼らが毛嫌いする「創作エピソードを素直に真実だと受け取る人」と何にも変わらないよな〜 としみじみ感じます。
ちなみに「ほんとにあった! 呪いのビデオ」でいちばん怖かったのは「首の家」。有名なやつだけど、これは怖い、マジ怖い。YouTubeに動画あったので貼っちゃうけど、怖いのが苦手な人は見ない方がいいです。
「首の家」は「ほんとにあった!呪いのビデオ45」に収録されています。これは必見の回。
ほんとにあった!呪いのビデオ45