「ブラックジャックによろしく」でお馴染みの漫画家佐藤秀峰氏が、有料メルマガで離婚を告白。佐藤秀峰氏が、妻にインタビューするスタイルで公開されており、大きな注目を集めています。
・佐藤秀峰×佐藤智美 「離婚インタビュー」前編(ブロマガ)
イイところで有料化になっているが、これ以降は息子さんが書いた直筆の手紙写真と、元妻智美さんの「夫は屑だけど漫画全体のことは真剣に考えている」「子供には罪がないことを強調」している。でもって、「日本沈没」「モーティヴ」「ダービージョッキー」の作品を持つ、漫画家の一色登希彦氏が、連続ツイートをしており、合わせて読むといろいろと楽しい。
3.11のあとに、友人だった多くの人との距離感が変わってしまったし、逆に多くの新しい友人も出来た。(3.11以前から変わらず友人関係を続けている友人も、もちろんいます)。震災と核事故のあとに、変わった人と変わらなかった人とに明確に分かれてしまったのだと思う。
自分に関しては、震災と核災害に驚いて変わってしまった。同時に、変わらない人が居る事に驚いた。でも、逆の言い方も出来る。自分は3.11以前から変わっていないつもりがある。あれだけのことがあったのに変わらなかった人たちこそが、核災害によって変わってしまった人たちなのだ…とも思う。
「変わった人」「変わらなかった人」=「狂ってしまった人」「狂わなかった人」と言い換えても良いです。
自分に関しては、狂ってしまったとも言えるし、自分だけ狂ってなくて周りが狂ってしまったのだ、とも、思う。
3.11のあとに意志的に取り戻す事にしたのは、自分が「弱っちいひとりの人間であること」です。「人間であること」とは、死ぬ事をびびり、生きる事を喜び、お財布には今日と明日の分の小銭くらいしかなく、今日借りた物は明日返せる規模の生活を送っている…といったことを指します。
人間であることをやめてしまって、その代わりに大きな力を手に入れた、多くの人がいる。見渡してもそういう人がいるし、知人にも多くいる。僕は、もう、自分はそれは無理だと思いました。そのように人間でなくなることをやめて、僕は、びびりの人間であることに戻ろうと思った。
人間であることをやめて手に入れられる力には、確かに大きな魅力がある。僕でさえ、そんなチャンスや万能感の欠片に酔った時はあった。自分の内面やら経験やら傷を晒して、それを多くの人に売り付けることを選ぶと、身に余るお金と名声を得る事は、不可能ではないんです。
でも、失うリスクも伴う。コワいのは、人間でなくなってしまうと、ハイな状態が続いたまま、「失ったって構うもんか」「こんな自分は何をしてもいいんだ」(「死んだって構うもんか」=死ぬわけがない)と思い始めることです。(アイルトン セナはその極みだったのではないかと今ふと思い立った)
以前は、「漫画家をやめるくらいなら、人間をやめる(死んでやる)」と考えていました。(それによって生み出されたものや、もたらされたインスピレーションは間違いなくあるのですが)でも今は「まず人間として生きる。漫画を描いて生きているかどうかは、その次のこと」と思うようになった。
僕は、人間である為の再着陸を試みることにした(している)のだけれど、かつての友人を含めて、今も人間ではない道を選んで、大きな力を振り回したり振り回されたりしているのを見ると、隔世の感があります。今、そうまでして、何を手に入れたい?? 何を成し遂げたいのだろう???・・・と。
でも、「物語の語り手」は、たいへんなのかもしれません。物語が口述伝承物語で作者不詳であった時代と違って、今は、作者の名と成り立ちが物語に添えられる事を求められている。
畢竟、ほんらいは個人であるはずの作者は、人間個人以上の名声と罪を背負って、人間ではいられなくる(=疑似神サマである)事を大なり小なり背負わなければいけなくなる。
作者は、私小説的な叙述をはじめとして、自分の傷やプロフィールや経歴さえも、売り物にしなければならなくなる。そうなると、人間には戻りにくくなる。明日の小銭しか無いようなちっぽけな人間に戻るチャンスは、極めて少なくなる。その傷の回復し難さたるや。
誰かが人間でなくなるのは、その誰かの問題だけなのだとしたらまだ放っておくことも出来るのだけれど、この「非人間性」は遺伝するし空気感染する。ものすごく簡単に、子や、友人や、恋人や、配偶者や、目の前の相手に伝わる。
「俺だって我慢しているんだからお前も我慢しろ」になる。「いいか世の中なんてのはこんなものなんだからな!」と。殴られて、イヤでイヤで仕方なく過ごした1年生が2年生になった時、また、新しい1年生を殴る。
人間でなくなった人の、(正直であることのオブラートに包んでの)告白に、少なくない人間は、お金と時間を捧げることになる。例えばテレビの多くの作り物だ。その告白や演説の内容が、ポジであれネガであれ、人間で無くなった人にお金と時間を捧げていることに変わりはない。
世界は何も変わらない、いや、硬直した世界の、人間でない者を助長し、それに加担し続けているのよ。
「正直に非人間であることを認めて何が悪い?」「正直に欠点を見つめて告白して何が悪い?」そんなふうに、正直や露悪であることが良いことのように言われるかも知れないけれど、そこに、そんなわけで、まだ罠はある。正直であることは、愚かさの免罪にはならない。
昏くて愚かで、そのことに正直(しばしば居直ったりするよう)であることが、もっとも罪深いのだ。理解は出来るし同情もするけれど、僕はそれをそのまま受け入れることは出来ない。
いつでも、今日明日死んでしまっても、貸し借り無しで弔ってもらえる、サヨナラしてもらえること。そういった人間であると良い。僕はそのように思う。
世界が、人間でなくなった存在が居ない、弱い人間だけしか居ないと、ダムやビルや高速道路や新幹線やジブリ作品が造られ得ない…といった問題があるので、結論には到達出来ないのですが。
その天秤の振り合いは、今、総和として、「都市と都市の連中は、それをやれていない」というのが、僕の見解です。肝は、貧乏でみっともないことになるけれど、人間に戻ることだと思う。
だから、人間でない人の露悪や告白や、テレビやらを見て、心を揺り動かして参加して金を払っている時ではない。あなたは(僕の知っているすべてのあなたは)、昨日までやろうとしてやり続けていたことを、丁寧に、誠実に、(疑問があるなら問い直しても良いし)やり続けるのが正しい。グッドラック。
いろいろと私も思うことがあるんですが、今日は会社に泊まって仕事しており、ひじょーーに時間がないのでまた次回。