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紅茶とお菓子について書いているほっこりブログです

父からの虐待

これは読むと気持ちが悪くなります。
・今までにあった最大の修羅場 £72

347 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 15:42:11.25 O
携帯から流れ読まずに投下。フェイクあり。私は保育園から高校まで父親から虐待という名のものを全て受けた。家族は父親、母親、私、妹の四人家族。
父親は無職で毎晩酒を呑み私や母親に暴力を奮う。当然貧乏で食べる物も全くない。母親が何度か働きに出るが父親は世間体が悪いとすぐに辞めさせる。
米が尽きたら親戚の家に私と妹が行き「お米をください」と言っていた。この時私は5歳か6歳だった。そのうち三番目の妹が出来た。続きます

348 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 15:48:33.08 O
ある日、酒に酔った父親が真ん中の妹を連れて出かけた。深夜に枕元で母親が「妹が死んだ」と泣いてた。大通りを妹が飛び出してスピードの出た車に轢かれ即死だった。それから父親は「酒を辞める」と言うが1ヶ月ももたず更に虐待が酷くなった。
小学校高学年になる頃には私だけが標的になった。骨は折られ、腕は刺され、手にタバコを押し付けられ首は絞められ足には熱い天ぷら油を落とされた。
母親はやがてそれらの虐待を見てみぬフリをし寝ていた。でも母親に助けて欲しいとは思わなかった。続きます

352 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 15:56:03.52 O
母親は父親がいない時は優しかったし二人で買い物に出かけた時はこっそりアイスや食べ物をヘソクリ?で買ってくれた。今思えば罪滅ぼしか何かかも知れない。
遠足の弁当も全財産1000円を持って買いに行った事もある。たまたま親戚のおばさんに出会いおばさんに「明日遠足!」と笑ったら何かを悟ったおばさんは1000円を握らせてくれた。あのお米をくれたおばさんです。
小学校では勿論いじめにも合います。身なりが酷かったので当たり前ですね。貧乏な家の弁当はどんなの?と遠足前に開けられたり蹴られたり無視されたり。そんないじめは全然辛くなかった。痛くないからです。
長くてすみません。もう少しです。

354 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 16:03:09.31 O
家での暴力の方が生命に関わるからです。そんな私も中学になり初めて生理が来ました。母親だけに話しましたが学校から帰ると父親もやはり知っていました。
恥ずかしいのと嫌悪で不機嫌な私に父親は「女になったからって調子にのるな!」と殴りました。このあたりから性的虐待も始まります。何かと胸を触ったり下半身を触ったりと思い出しても腹立たしいです。それだけですんだのは幸いです。
そんなある日父親と喧嘩した母親は出ていきました。支援ありがとうございます。

357 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 16:12:17.35 O
私は高校生にもなって「お母さん、待って!あたしも!」と泣き叫びましたが無視され結局置いて行かれました。それから父親と妹と三人で暮らしましたが毎日が生き地獄でした。
精神的に病んでいた私は風呂場で手首を切りました。でも怖くてためらい傷ばかりでした。そんな私を見た父親は静かに「死ぬなら死ね」と言いました。
結局死ねない私はこのまま暮らすしかなかったです。
転機がきました。いつもの様に虐待を受けていた私に父親が「出ていけ!」と言いました。私はすぐに荷物をまとめ部屋を出ました。出る前に妹が黙ってゲームをしてるのが見えました。でも私は連れて行かなかった。今でも後悔してます。

358 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 16:21:14.35 O
私は自転車に乗り高校ではなく中学校に行きました。夜も遅かったので友達に電話し迎えに来てもらいました。その日はそこで過ごし次の日は違う友達の家に行こうした所で高校の先生につかまり校長室に連れて行かれこれまでの話を聞かれました。
一人の先生が同情してくれたおかげで保護される事になりました。次の日、父親を含めた大人で話し合いの場を設けられましたが父親は来ませんでした。結局、父親方の親戚に預けられましたが1ヶ月程で母親の元に行く事になりました。母親は実家に帰っていたのです。

360 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 16:36:08.13 O
親戚は最後に父親と話をしてから母親の元へ行こうと言いました。私は嫌でしたが仕方なく行く事になりました。家に帰ると父親と妹はどこかへ出かける所でした。
私を見た父親は驚いていました。親戚の人が「この子はもうここでは暮らせない。○○(私)ちゃんも挨拶して。」と言いました。
その時父親が「もう暴力は奮わないし干渉もしないから一緒に暮らしたい」と言いました。私はそれを聞いて「もう暮らせない」と言いました。
家を離れる時、やはり妹が心配で仕方なかった。けれど妹には虐待してなかったのが幸いです。それっきり父親とは会ってません。
次が最後です

366 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 16:57:47.91 O
社会人になり妹と連絡をとれるようになり何回か会いました。一番驚いたのは妹が父親を好きだということでした。あたしの記憶の父親と妹が話す父親は全く違いました。
ある日妹からメールがきました。父親が亡くなったと。私は葬式にも行かなかったし結局最後まで会いに行かなかった。これが父親に対する復讐?のつもりです。妹は悲しんでいましたが私は何も感じませんでした。
すいません。以上です。父親は亡くなったのに記憶は消えないものなんですね。

383 :名無しさん@HOME:2013/01/09(水) 17:41:18.51 O
347です。わかりにくい文章ですみません。私達は3姉妹でした。出ていった母親と暮らす事について何も思わなかったと言えば嘘になりますが、あえて考えたりするのはやめていました。
それよりも安心してご飯を食べたり寝たり友達と遊んだりする事が何よりも嬉しかったからです。
今は結婚して子供もいます。普通の毎日を過ごせています。